最近、ある受講生から、宗教についてのおもしろい意見をいただきました。
その人に送った手紙を紹介します。
その人に送った手紙を紹介します。
テスト裏面のコメント、たいへん興味深く読ませていただきました。
とくに、「私が信じているキリスト教の神を崇めるところ、神の愛を信じる心、そういうものを一緒にして、ミキサーにかけ、新しい社会主義をつくれないかと思います」という意見に興味をひかれました。
同時に、ここには唯物論にたいする誤解も若干混じっているような気もしています。
テキストでは充分に展開していないことなので、あくまでも私見としてコメントさせていただきます。
とくに、「私が信じているキリスト教の神を崇めるところ、神の愛を信じる心、そういうものを一緒にして、ミキサーにかけ、新しい社会主義をつくれないかと思います」という意見に興味をひかれました。
同時に、ここには唯物論にたいする誤解も若干混じっているような気もしています。
テキストでは充分に展開していないことなので、あくまでも私見としてコメントさせていただきます。
勤労者通信大学は、いうまでもなく唯物論の立場であり、たしかに世界観のうえでは宗教は観念論としてくくられるため、その点では立場が異なります。
しかし、たとえ宗教者であったとしても、ものごとを具体的に解決していくためには、祈りを捧げるということももちろんするでしょうが、同時に、場合によっては祈りなどの宗教的な活動よりも先に、何らかの実践にとりくむのではないでしょうか。
つまり、状況を適格に把握し、解決するにはどうしたらよいかを正しくつかんで、対処するのではないでしょうか。
たとえば、こういう話があります。
ある工場では労働災害が絶えず、会社側は労働者にたいして「おまえらがたるんでるからだ。しっかり働け」と檄をとばしました。労働者の方は「そうかなあ」と思いつつも、とにかく気をとりなおして働きつづけました。
しかし、労働災害は一向になくなりません。
すると次に会社がとった行動は、「いかん! この機械には魔物がついている」として、神主をよんでお祓いをしたそうです。
ある工場では労働災害が絶えず、会社側は労働者にたいして「おまえらがたるんでるからだ。しっかり働け」と檄をとばしました。労働者の方は「そうかなあ」と思いつつも、とにかく気をとりなおして働きつづけました。
しかし、労働災害は一向になくなりません。
すると次に会社がとった行動は、「いかん! この機械には魔物がついている」として、神主をよんでお祓いをしたそうです。
私はこの話を聞いたとき、会社側はいったい何を考えているんだと憤りました。
別にお祓いをすること自体は否定しません。
しかし、何もいの一番にお祓いをするというのはどうかと思います。
この話をある学習会で紹介したところ、参加していた国鉄労働組合に所属する人(運転士)が反応しました。
「お祓いって、本当にするんですよ。
私は運転士なんで、何回か死亡事故を起こしたことがあります。
そうすると会社側が事故を起こした運転士に最初にいうのはきまって『お祓いをしてこい』です。
別にお祓いしたっていいけど、それより先にすることがあるだろ!っていいたいですね。
そんな姿勢じゃ、いつまでたっても事故はなくならない」
と、私と同じ趣旨のことをのべました。
私は運転士なんで、何回か死亡事故を起こしたことがあります。
そうすると会社側が事故を起こした運転士に最初にいうのはきまって『お祓いをしてこい』です。
別にお祓いしたっていいけど、それより先にすることがあるだろ!っていいたいですね。
そんな姿勢じゃ、いつまでたっても事故はなくならない」
と、私と同じ趣旨のことをのべました。
そういう点から考えると、唯物論こそが共同をひろげる世界観だということができます。
唯物論者と宗教者という世界観的な立場のちがいを尊重し合いながら、協力・共同することが大切です。
立場のちがいを尊重するのは、まさしく民主主義です(民主主義については5~6章で学習しましょう)。
現実には多くの場面でこの両者は協力・共同しています。たとえば、平和運動に熱心にとりくんでいる宗教者は世の中にたくさんいます。
「オレは唯物論者だから」といって宗教者を排除することがあってはならないし、また逆もしかりです。
そんなことをしては協力・共同はなりたちません。
さまざまな立場のちがいを超えて協力・共同して運動をつくっていく場合、どこで一致して協力・共同していくのかを明確にする必要があります。
つまり、あるものごとにたいする事実関係の整理とその対処方法についての一定の一致です。
それがなければ、協力・共同はなりたちません。
そしてそのことは、くどくどとこのような理屈を並べ立てなくても、多くのまじめな宗教者は実践的に理解していると思われます。
おそらく立場のちがいを超えて結集した運動の場合、宗教者は自分と立場がちがう人に布教活動をしたりするようなことはしないでしょうし、また政党が勧誘活動をすることもないでしょう。
参加者どうしが個人的に親しくなり、いろいろなことを話し合える関係がつくられてからであれば、そういうことがおこなわれることもあるでしょう。
個々の団体・グループが自分たちの仲間を増やすための「草刈り場」にするようなことがあっては、協力・共同はなりたたないからです。
そもそもそういうことを目的に結集しているわけではないのです。
テキスト314~318ページで展開している立場のちがいを超えた協力・共同=統一戦線(運動)には、当然のことながら宗教者もふくまれます。
また社会主義は「資本主義社会の価値ある成果をすべて受けつぎ、それをより全面的に発展させる社会」(302ページ)です。
「資本主義社会の価値ある成果」には「民主主義思想や文化」、そして民主主義の土台である人権もふくまれます。
信教の自由も人権ですから、少なくとも宗教者を排除したり、宗教をつぶすようなかたちで社会変革を進めていくようなことはありえませんし、またあってはならないことです。
この点は、「補論 宗教とは何か」(81~83ページ)も併読しながら、ぜひ深めてほしいと思います。
そのことを理解していただければありがたい、というのが私の趣旨です。
あくまでも参考意見ですが、考えてみていただけば幸いに存じます。 (勤通大部長・吉田ふみお)