労働者教育協会のブログ

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60年安保闘争と安保共闘─共産党オブザーバー参加問題をめぐって③

《安保共闘の結成と共産党の積極的役割》
 
 1959年2月27・28の両日に開催された「安保条約廃止・平和共存推進・日本平和大会」(東京・日本教育会館)と、27日、「日中関係打開・核武装禁止国民大会」(58年11月、東京・杉並公会堂)の主催団体(総評、日本原水協、日中国交回復国民会議憲法擁護国民連合、全国基地反対連絡会議)が開催した「安保体制打破、日中国交回復、国民総決起大会」(東京・四谷外堀公園)の2つの大会の成功が、安保闘争と共闘組織の結成において決定的な役割をはたしました。
 
 上記の5団体は、警職法改悪反対国民会議とは別に、安保闘争のための共闘組織の結成を決定しました。
 連日のように共闘組織結成のための討議の場がもたれましたが、前回ものべたように、社会党が「共産党と一線を画する」という方針に固執したため、共産党は幹事団体会議にはオブザーバー参加となりました。
 しかし実質的には、共産党は強力な発言力をもつ幹事団体会議の有力メンバーだったのです。
 この点について、安保共闘の事務局長で社会党員の水口宏三(みなくち・こうぞう)は、以下のように語っています。

  「……安保国民会議には共産党系の大衆団体が幹事団体になったばかりでなく、共産党そのものがオブザーバーとして会議に参加し自由に発言したし、国民会議はオブザーバーをも含む幹事団体全員一致の方式で運営されていたのだから、事実問題として、安保闘争では、戦後はじめて社・共の共闘が実現したことになる」(水口宏三著『安保闘争史―ひとつの運動論的総括』社会新報、1968年)。

 警職法反対闘争以来、一貫して反共的態度に固執してきた全労会議・新産別は、安保共闘には加わりませんでした。

 また、中央段階では共産党は幹事団体としてはオブザーバーでしたが、地域共闘では警職法反対闘争に引きつづいて共産党は正式メンバーとして積極的な役割をはたしました。
 共産党をふくむ地域共闘組織は1960年夏までに2000を超え、全都道府県および重要地区にすべて統一戦線がつくられたのです。(つづく)