労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

60年安保闘争と安保共闘─共産党オブザーバー参加問題をめぐって②

警職法改悪反対闘争から安保闘争へ》
 
 前回の最後にのべたように、60年安保闘争における安保共闘の指導的役割の背景には、1950年代における新しい国民運動の高揚がありました。
 
 とくに、警職法改悪反対闘争からの変化をみておく必要があります。
 国会に警察官職務執行法警職法)改定案が提出されてから5日後の1958年10月13日、社会党・総評・中立労連・全労会議・新産別などを中核に「警職法改悪反対国民会議」を結成し、11月7日までに約400団体が結集しました。
 このとき、全労会議と新産別が強固な反共的態度をとり、総評・社会党もこれに同調し、共産党と「共産党系」とみられていた団体はこの共闘から排除されたのです。

 しかし、中央段階では排除されても、多くの都道府県組織では、共産党や平和委員会など「共産党系」とみられていた団体も積極的な参加が認められました。
 このうち25府県共闘組織では共産党が正式に参加し、6組織ではオブザーバー参加、2組織では共産党機関メンバーが個人で参加しています。

 国民会議や地方共闘組織などは、精力的に数多くの決起集会、講演会、学習会を開きました。
 こうした活動をつうじて、警職法改正案が戦前の治安維持法のようなもので、警察国家の再現をめざすものだという世論が生みだされました。
  「オイコラ警察復活反対」「デートもできない警職法反対」などのわかりやすいスローガンをかかげて、警職法改悪反対の世論と大衆運動を発展させ、法案の成立を阻止しました。

 警職法改悪反対闘争で盛り上がった国民の力を安保闘争に発展させることが、多くの人に期待されていました。
 しかし、法案の成立を阻止した直後の1958年11月28日、社会党警職法改悪反対国民会議の幹事会で「平和と民主主義を守る国民会議」への改組・発展を提案しましたが、全労会議・新産別が強硬に反対し、国民会議は解散を余儀なくされました。
 全労会議・新産別は、地域共闘で共産党が積極的な役割をはたしてきたために、改組・発展にあたって共産党や平和委員会などが参加してくることを恐れたのです。
 警職法共闘から安保共闘へという多くの人びとの希望は、一時的に頓挫することになります。(つづく)