労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

ヤルタ会談とポツダム会談

 昨日の掲載文とも関連しますが、かつてとある友人から、「ヤルタ会談ポツダム会談がどうちがうのか、教えてくれ」といわれたことがあります。
 そのときに解答した文章を一部修正のうえ掲載します。
 昨日の文章ともダブりがありますが、文章の性質上、そのままにしておきました。
 
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 ヤルタ会談(1945年2月4日~11日)とポツダム会談(1945年7月17日~8月2日)。
 いずれも第2次世界大戦末期の戦争遂行と戦後処理をめぐる連合国首脳会談である。
 具体的な中身の問題はさておき、この2つの会談には、第2次大戦末期における段階のちがいを背景とした大きな性格のちがいがみられる。すなわち、
 ドイツ降伏(45年5月8日)の前か後かという段階のちがいを背景とした米ソ関係の変化である。

 まず抑えておくべきことは、第2次世界大戦の主要な性格が、日独伊ファシズム枢軸国の侵略戦争にたいする反ファシズム連合国の戦争、すなわち反ファシズム戦争だということである。
 現実に戦争が引き起こされてしまった以上、具体的に日独伊の軍事力を抑え込むためには、その他の大国が一致団結する必要があった。
 とくに米ソの団結は欠かせなかった。
 米ソが団結・協調してファシズム枢軸国に対峙したことが、第2次大戦で反ファシズム・民主主義連合を勝利に導いた最大の原因といっていいであろう。
 つまり、ファシズム諸国の侵略に苦しめられた民衆の支持を背景に、反ファシズム連合は勝利したのだ。

 もう1つ大事なことは、反ファシズムという大きな枠組みのもとで、米英ソを筆頭とした連合国に所属していた帝国主義国は、自らの帝国主義的・覇権主義的野望を捨ててはいなかった、ということである。
 反ファシズム連合に加わるなかで、その野望を貫こうとした。逆をいえば、反ファシズム連合に加わらなければ、その野望を貫くことができない。
 つまり、ファシズムに苦しめられている民衆の支持という“大義名分”がなければ、ファシズム諸国にたいして公然と軍事力を行使し、敗北に追い込んで占領し、君臨することができなかった、ということである。

 しかし、第2次大戦の最末期には、米ソ協調路線に亀裂が生じた。
 といっても、反ファシズム連合の大きな枠組みは維持されていた。
 この反ファシズム連合の大きな枠組みが崩壊するのは、だいたい1948~49年ごろ、すなわち公然と冷戦が開始されたときである。
 第2次大戦の最末期には、すでに冷戦の前哨戦が激しく展開されていたのだ。

 それを象徴しているのが、以下のようなポツダム宣言にまつわる経過である。
 ポツダム会談には米英ソ3首脳が出席、そこで作成されたポツダム宣言は、会談に参加しなかった中国をふくめた米英中3国で発表、後からソ連が加わったことで、米英中ソの共同宣言となった。
 なぜこのような複雑な経過をたどることになったのだろうか。

 具体的にみてみよう。ヤルタ会談(45年2月)の段階では、まだドイツが降伏していなかったため、アメリカは対日戦争に集中することができず、日本を降伏させるためにはソ連の力が必要であった。
 だから、アメリカはソ連に対日参戦の約束をとりつけた。

 5月8日にドイツが降伏すると、アメリカは対日戦後処理においていかに優位な地位を獲得するか、ということを考えるようになった。
 すなわち、ソ連が参戦する前に日本を降伏させる必要がある。
 そのためには、前々から開発をすすめていた原爆を使わなければならない。
 だからアメリカは、ヤルタ後の首脳会談をなかなか開こうとせず、ギリギリまで引き延ばし、原爆開発のメドがたった7月17日に、ようやくドイツの首都ベルリン近郊のポツダムで連合国首脳会談をひらいた。
 このとき出席したのは米英ソ3国首脳。この会談における一番の焦点だった日本問題は、アメリカのトルーマンが主導権を握ることになる。

 会談開始の前日、7月16日に原爆実験が成功し、その報告を受けたトルーマンは、原爆を日本に投下して、ソ連参戦よりも早く日本の降伏をもたらそうと画策し、ポツダム宣言の作成過程からソ連を排除した。
 こうしてポツダム宣言は、事実上、トルーマンが単独で作成し、最初から会談に呼ばれなかった中国・蒋介石の同意を後からとりつけて、形式的には米英中3国共同宣言として、7月26日に発表された。
 そのさい、日本がすぐに宣言を受諾しないように、天皇制存続の保障を宣言案からはずした。
 その結果、日本はポツダム宣言を「黙殺」し、それが広島原爆投下の口実として利用されることになった。

 アメリカの思惑を知っていたソ連もその後あわてて、日本のポツダム宣言「黙殺」を理由に、ソ連は8月8日、長崎原爆投下の前夜に駆け込み的に日本に宣戦布告し、それにともなってポツダム宣言に加わった。
 これは、宣言発表時、ソ連は日本と戦争状態になかったということと、連合国の共同宣言だという形式を後からでも整えるためだったと思われる。

 つまり、ポツダム宣言の作成から発表、ソ連の参加に至る過程は、文字どおり第2次世界大戦の最終段階であり、反ファシズム連合という大きな枠組みを維持しながらも、その陰で、冷戦の前哨戦ともいうべき日本の戦後処理をめぐる米ソの主導権争いが激しく展開されていたのだ。
 そのために、上記したような複雑な経過をたどることになったのである。

 その後、8月14日に日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏。
 連合国軍はポツダム宣言にもとづいて日本を占領し、日本の非軍事化・民主化政策を推し進めた。
 現在の日本国憲法は、まだ反ファシズムの枠組みが維持され、このポツダム宣言を厳正実施する過程で成立した。
 冷戦開始前のことである。
 5千数百万人もの死者をだした第2次世界大戦への痛切な反省から、「紛争の平和的解決」を基本理念とした国際連合が成立し、その精神をより徹底した非戦・非武装・平和主義の日本国憲法が誕生した。

 いまその憲法が変えられようとしているが、ヤルタ会談ポツダム会談にまつわる歴史を正確に理解することは、私たちが生きてきた戦後史の基本条件を理解することである。
 つまり憲法を変えるか変えないかということは、私たちの生き方そのものの問題であるのだ。
 70年前の先達が、第2次大戦への反省としてあえて「紛争の平和的解決」を打ちだしたことの意味を、あらためてかみしめることが大切だと思う。