安倍政権は、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲の閣議決定を明日7月1日も強行しようと企んでいます。
いわゆる「限定」とか「最小限度」といった問題のマヤカシについてはここでは言及しませんが、労教協会長の山田敬男氏と勤通大憲法コース教科委員会責任者の小沢隆一氏が論文を書かれているので、当面はそちらに譲ります。
ぜひ以下の論文をお読みください。
いわゆる「限定」とか「最小限度」といった問題のマヤカシについてはここでは言及しませんが、労教協会長の山田敬男氏と勤通大憲法コース教科委員会責任者の小沢隆一氏が論文を書かれているので、当面はそちらに譲ります。
ぜひ以下の論文をお読みください。
山田敬男「『海外で殺し殺される国』への大転換─安保法制懇・報告書を批判する」(『学習の友』2014年7月号)
小沢隆一「集団的自衛権容認にひた走る安倍政権─安保法制懇報告書と『基本的方向性』をめぐって」(『前衛』2014年7月号)
今日は、集団的自衛権と集団安全保障のちがいについてです。
この説明は、集団安全保障にもとづく具体的な措置の1つをいっており、その本質を説明したものではありません。
それでは、集団安全保障の本質とは何でしょうか。
勤労者通信大学憲法コーステキストでは、集団安全保障を以下のように定義しています。
「集団安全保障は、……軍事同盟を否定し、すべての国が(敵も味方もなく)参加することによって集団的体制をつくり、その体制内部のお互いの努力によって、侵略を防ぎ、平和をまもっていくしくみのことであり、国際連盟や国際連合の基本原則になっています」(82ページ)。
国連決議にもとづく武力制裁は、集団安全保障の原則にもとづく国際機構である国連において、あくまでも「違法な侵略から世界平和をまもる最後の手段」なのです。
先に紹介した説明では、「最後の手段」であるはずの「国連決議にもとづく武力制裁」のみがクローズアップされているため、本質がどこにあるのかがわからなくなってしまっています。
つまり、集団安全保障とは、軍事同盟を前提とする集団的自衛権とは、同じ「集団」という言葉を使っていても、その性質をまったく異にする概念なのです。
ところが、マスコミなどをみていると、集団安全保障と集団的自衛権を混同していることがよくみられます(ときに意図的にそうしているフシがあります)。
この点をよく注意しておかないと、一面ではまちがったことをいっていないようにみえても、実際には本質が歪曲され、だまされてしまいかねません。
現在、世界各地で、集団安全保障にもとづく平和のルールづくり、平和の共同体づくりがすすめられつつあります。 くわしくはぜひ、勤通大憲法コースなどで学習してほしいのですが、いわゆる東アジア共同体づくりも集団安全保障の地域版・アジア版といえます。
また、日本共産党などが提唱している「北東アジア平和協力構想」などもそうです。
そもそも憲法第9条は、外交の基本理念を示したものだとすれば、日本1国の努力だけでは実現できないことであり、国際社会、とくに日本が位置するアジア諸国の理解と協力が必要不可欠です。
つまり、集団安全保障の理念を徹底させることが憲法第9条の理想を実現する前提となるのです。
その意味で、第9条をはじめとする日本国憲法の平和主義は、アジアにおける平和のルールづくり、平和の共同体づくりとセットで考え、実践していくことが重要です。
世界の、そしてアジアの現実は、まさに集団安全保障を地域ごとに実現しようと努力を積み重ねているのです。
にもかかわらず安倍政権は、第9条を破壊して、日本を「海外で戦争できる国」にしようと躍起になっています。
この動きを何としても阻止しなければなりません。