勤通大の学習会などで現代史を扱ったり、あるいは憲法問題などにからんで現代史に言及することがありますが、そのさい、意外と有名な事象についての事実関係の認識がけっこうあいまいだったりするという場面に直面することがよくあります。
日本国民の歴史認識の「弱さ」は本当に深刻だと感じます。
今日は、この間、たまたま複数の場所で、ポツダム宣言について、同じような事実認識の混乱に直面しました。
簡単にいうと、宣言を作成した会議への出席国、宣言の起草国、宣言の発表国などはそれぞれ別々のことになっているので、作成経過を丁寧に追わないとわけがわからないことになってしまう、ということです。
以下のような文章を作成しましたので、ブログにも掲載します。
日本国民の歴史認識の「弱さ」は本当に深刻だと感じます。
今日は、この間、たまたま複数の場所で、ポツダム宣言について、同じような事実認識の混乱に直面しました。
簡単にいうと、宣言を作成した会議への出席国、宣言の起草国、宣言の発表国などはそれぞれ別々のことになっているので、作成経過を丁寧に追わないとわけがわからないことになってしまう、ということです。
以下のような文章を作成しましたので、ブログにも掲載します。
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ポツダム宣言の作成経過と背景
なぜこのような複雑な経過をたどることになったのでしょうか。
ソ連が参戦する前に日本を降伏させる必要がある。そのためには、前々から開発をすすめていた原爆を使わなければならない。
だからアメリカは、ヤルタ後の首脳会談をなかなかひらこうとせず、ギリギリまで引き延ばし、原爆開発のメドがたった1945年7月17日に、ようやくドイツの首都ベルリン近郊のポツダムで連合国首脳会談をひらいたのです。
このとき出席したのは米英ソ3国首脳。
ドイツ降伏後という歴史的局面が、米ソ関係に微妙な変化をもたらしたのです。
会談開始の前日、7月16日に原爆実験が成功し、その報告を受けたトルーマンは、原爆を日本に投下して、ソ連参戦よりも早く日本の降伏をもたらそうと画策し、ポツダム宣言の作成過程からソ連のスターリンを排除しました。
イギリスのチャーチルは、与党保守党が選挙で敗北したために急遽帰国してしまいました。
そのさい、日本がすぐに宣言を受諾しないように、天皇制存続の保障を宣言案からはずしました。
その結果、日本はポツダム宣言を「黙殺」し、それが広島への原爆投下の口実として利用されることになります。
これは、宣言発表時、ソ連は日本と戦争状態になかったということと、連合国の共同宣言だという形式を後からでも整えるためだったと思われます。
つまり、ポツダム宣言の作成から発表、ソ連の参加に至る過程は、文字通り第2次世界大戦の最終段階であり、反ファシズム連合という大きな枠組みを維持しながらも、その陰で、冷戦の前哨戦ともいうべき日本の戦後処理をめぐる米ソの主導権争いが激しく展開されていたのです。
そのために、上記したような複雑な経過をたどることになったのです。