憲法コースの補強点の1つに核問題があります。
核問題の記述がこれまで弱かったので、新規のコラムを挿入しました。
以下、紹介します。
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第2次世界大戦末期の1945年8月6日と9日にアメリカが投下した2発の原子爆弾(原爆)は、広島と長崎を一瞬にして死の街に変え、1945年だけで21万人もの生命を奪いました。
生き残った人たちも、放射能症に苦しみ、結婚や就職などで差別されるなど、身体と心を傷つけられてきました。
このような言語を絶する惨害をもたらした原爆(のち、水素爆弾などと合わせて、「核兵器」と総称されるようになる)にたいし、国際社会はいちはやく対応しています。
第2次大戦後に発足した国際連合(国連)は、第1回総会の第1号決議において、「原子兵器および他のすべての大量破壊兵器を各国の軍備から除去する」ことを謳(うた)いました。
しかしのちに、当時唯一の核(原爆)保有国だったアメリカに加え、1949年にソ連が原爆開発に成功したことで、核軍拡競争が幕を開けることになります。
以下にのべるような原水爆禁止運動や被爆者運動の影響もあり、一時は増えつづけた核兵器もひところよりは減ったとはいえ、世界にはいまなお1万6000発もの核兵器が存在しています。
被爆国日本をはじめとする世界の人びとは、核兵器を禁止するたたかいにとりくんできました。
1950年にとりくまれた原子兵器の絶対禁止と国際管理をもとめるストックホルム・アピールの署名運動は、約1年の間に世界で5億、占領下の日本でも645万もの署名が集まりました。
日本では1954年3月のビキニ環礁水爆実験において第5福竜丸が被災した事件を契機に原水爆禁止運動が高揚し、1年余で3000万以上の原水爆禁止署名が集まり、翌1955年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開催され、以後毎年、主に広島と長崎で開催されています。
この運動の影響で、1955年の総選挙、1956年の参院選で改憲発議を阻止する3分の1の議席を革新諸政党が確保し、この時期強められていた明文改憲の動きを打ち破りました。
原水爆禁止運動の発展に励まされた被爆者たちは、第2回原水爆禁止世界大会の最中だった1956年8月、被爆者運動の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成しました。
「核兵器廃絶」と「原爆被害の国家補償」をかかげて、粘り強く運動をつづけています。
こうした運動が世界を動かし、近年では核兵器の非人道性が強調されるようになり、被爆70年にしてようやく、核兵器禁止条約の交渉開始が国際政治の熱い焦点となってきています。
しかし、日本は被爆国であるにもかかわらず、日米同盟に固執してアメリカの核戦略を支持し、核兵器使用さえ容認する態度をとりつづけています。
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