労働者教育協会のブログ

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民族解放運動についての質問と回答

 憲法コース受講生からの質問と回答を掲載します。
 
 
《質問》

 ①テキスト22ページの下から5行目民族解放運動をふくむ民主主義の勝利で終わりました」にかかわって、民主主義として位置づけている「民族解放運動」について、具体的に教えてください
 ②テキスト24ページの上から10行目「民族独立・植民地解放運動が活発」の記載にかかわって、世界大戦との関連についてくわしく教えてください。
 
 
《回答》

 質問は民族解放運動の歴史にかかわるものです。そこで、第2次世界大戦期および第2次世界大戦後を中心に民族解放運動の大きな流れを整理することで、回答に代えたいと思います。

1.民族解放運動とは何か
 民族解放運動(闘争)とは、「被抑圧民族が抑圧民族の支配をうちやぶって民族の独立をかちとり民族自決権*1を実現するための闘争」(『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、638ページ)です。ちなみに「民族」とは、自然科学的な基準によって分類される「人類とはちがって社会的に分類される、「一定の経済的発展を前提として、地域と言語の共通性を基礎に歴史的に形成された人間の集団」(前同)のことです。ここでいう「一定の経済的発展」とは、基本的には資本主義的な生産関係にまで到達した段階を指すととらえるべきでしょう。ですから民族解放運動をより具体的に説明すると、欧米をはじめとする資本主義列強がアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの地域における諸国を植民地や従属国として支配下におさめたさい、支配・抑圧されている民族が自らを支配・抑圧している資本主義列強の民族からの解放(民族の独立、植民地の解放)をめざしたたたかいのことといえるでしょう。

2.植民地体制の成立と民族問題の国際化
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米資本主義は独占資本主義の段階に移行し、対外支配への欲望を剥きだしにして帝国主義化し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域にたいする激しい植民地獲得競争に乗りだしました(独占資本主義、帝国主義については、ぜひ「基礎コース」で学習してください)。その結果、20世紀初頭までにアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国は帝国主義列強によってほとんど分割され、帝国主義による植民地体制に組み入れられることになります。植民地体制の成立によって、それまではヨーロッパにおける多民族国家における国内問題だった民族問題は、この枠を抜けでて植民地問題全般と結びついて、国際問題に発展しました。植民地において民族資本家*2、労働者、農民など幅ひろい人民が帝国主義と敵対的な矛盾をもつこととなり、そこから民族の独立、植民地の解放をめざす帝国主義列強とのたたかいが必然的に発生することになります。

3.ロシア革命の影響
 20世紀のはやい時期に民族解放運動の前進に大きな影響を与えたのが、1917年のロシア革命直後にだされた「平和についての布告」「ロシア諸民族の勝利宣言」です。「平和についての布告」では、第1次世界大戦(1914~18年)におけるロシアとの全交戦国とその国民にたいして「無併合、無賠償の即時講和」という民族自決権もとづく平和を提案しました。また「ロシア諸民族の勝利宣言」にもとづいて、帝政ロシアが併合していたフィンランドポーランド、バルト3国の独立を認め、さらにソビエト政府は、トルコ、アフガニスタン、ペルシア(現在のイラン)に帝政ロシアが略奪した領土を返還しました。このことは、帝国主義に抑圧されていた諸民族に深い感動を与え、国際的な民族解放運動の高揚を促進することになります。

4.第2次世界大戦と民族解放運動
 しかし、第1次世界大戦を経ても、帝国主義による植民地体制は崩壊には至りませんでした。やがて第1次世界大戦で敗北したドイツ帝国主義がナチズムの台頭によって「復活」し、「天皇ファシズム」の日本、ムッソリーニ率いるイタリアとともにファシズム枢軸を形成して、植民地の再分割をめざして第2次世界大戦を引き起こします。
 第2次世界大戦は、第1次世界大戦と同じように、帝国主義戦争としての性格を一貫して保持していました。しかし第2次世界大戦の性格は、第1次世界大戦とちがって複雑であり、以下のような3つの性格をもっていました(テキスト21ページ注参照)。
 ①ファシズム諸国の戦争と侵略に反対する反ファシズム・民主主義擁護の戦争。②帝国主義諸国(諸民族)の民族的抑圧に反対する植民地・半植民地諸国の民族解放戦争。③帝国主義諸国間の戦争。
 第2次世界大戦は、以上の3つの性格が絡み合いながら、全体としては①の反ファシズム・民主主義擁護の戦争という性格が発展していったのです。
 また、②の民族解放戦争という問題も重要です。日独伊ファシズム3国に侵略・占領された地域の民衆による抵抗運動が強力に展開されたことによって、第2次世界大戦は、第1次世界大戦とちがって、民族的な性格が色濃く現れることになります。フランス、イタリア、ユーゴスラビアソ連などでは、「レジスタンス」や「パルチザン」と呼ばれる抵抗運動が活発に展開され、ファシズムの支配からの解放に大きな役割をはたしました。また、中国、ベトナム、朝鮮、ビルマ、インド、インドネシア などの諸民族は、戦争の過程で民族解放運動を強化していきます。

5.民族解放運動の発展と植民地体制の崩壊
 こうした民族解放運動の発展によって諸民族の独立が勝ちとられ、やがて16世紀からつづいてきた植民地体制が崩壊することになります。第2次世界大戦後における民族解放運動は、まず日本の帝国主義支配に抵抗していたアジアで高揚し、次つぎと独立を達成します。そのなかでも、1949年に中華人民共和国が成立したことは、民族解放の歴史の流れを象徴していました。さらに1950年代には、中東、北アフリカのアラブ圏、サハラ以南のアフリカで民族解放運動がすすみます。1960年には18ヵ国が独立しましたが、その大半がアフリカ諸国だったため、「アフリカの年」と呼ばれました。また、1959年のキューバ革命を皮切りにラテンアメリカでも民族解放運動が活発化します。

6.民族解放運動から非同盟運動
 植民地体制が崩壊していくなかで、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなど旧植民地諸国の結集がすすみます。1955年にはインドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議バンドン会議)」が開催され、日本をふくむ29ヵ国が参加します。この会議で、反帝国主義・反植民地主義、アジア・アフリカの連帯が宣言されます(バンドン宣言)。バンドン宣言のなかには、紛争の平和的解決をふくむ平和10原則も盛り込まれています。また、1960年の国連総会では、アジア・アフリカ43ヵ国の提案による「植民地独立付与宣言」が採択され、植民地支配の不当性とともに、民族自決権が国際的権利であることが確認されます。
 政治的独立を勝ちとったこれらの国ぐには、1960年代から非同盟運動を発展させ、国際政治で大きな役割をはたしていきます。バンドン宣言の精神を受け継いで出発した非同盟運動は、大国主導の軍事同盟を否定し、世界平和と民族自決権の確立、公正な世界秩序をめざす運動で、国連加盟国の6割を占める120ヵ国(2012年現在)が参加しています。
 
 
*1 「それぞれの民族が、独立の国家をつくることをふくめ、自己の社会体制や政治制度、国の進路などを、外部からの制約を受けずに自主的に決定する権利」(『社会科学総合辞典』839ページ)。

*2 植民地・半植民地において、外国資本の侵入への抵抗、あるいは刺激を受けるなかで、資本主義的生産関係が成長とともに出現する、外国資本と結びつきの少ない資本家のこと。主に中小企業家で、反帝国主義の革命的性格とともに、自らも資本家として労働者を搾取していることから生じる動揺的・妥協的な性格の二面性をもつ。 
 
 
●参考文献●
 *岡倉古志郎・犬丸義一編著『民族解放運動の歴史』上(労働旬報社、1967年)
 *岡倉古志郎・寺本光朗編著『民族解放運動の歴史』下(労働旬報社、1967年)
 *犬丸義一・山田敬男著『新・社会発展史―世界と日本のあゆみ』(学習の友社、1993年)