本日の『しんぶん赤旗』15面にも訃報が掲載されていますが、労働者教育協会元会長で経済学者の辻岡靖仁(つじおか・せいじ)さんが1月7日、急性心不全で亡くなられました。
享年85歳。労教協に連絡があったのは8日朝のことでした。
享年85歳。労教協に連絡があったのは8日朝のことでした。
私は勤労者通信大学の仕事の一環として、辻岡さんが亡くなられた7日の朝、電話で添削の仕事をお願いしたばかりでしたので、にわかには信じられない気持ちでした。
『赤旗』訃報でも報じられているとおり、とにかく学習教育運動に生涯を捧げられた方でした。
大学卒業後に関西勤労者教育協会の設立に参加されて以来、一貫して労働者教育に従事。
難しい経済学の理論や経済問題をわかりやすく解説する講義で人気を博し、関西弁でユーモアを交えた語り口に親しみを覚えている人もたくさんいました。
東京労働学校では主に経済学の基礎理論や経済情勢についての講義、『資本論』講座を担当されてきました。
また、労働問題・労働運動についても関心が高く、とくに「合理化」問題については弁舌鋭い批判を展開することで知られています。
まだ20代前半の若輩者でしたが、かつて連合通信に勤めていた私の父と親交があったこともあって親しく声をかけていただいたことを、いまでも昨日のことのように思いだします。
1999年に東京労働学校三多摩教室の運営委員になってからは、講義をお願いするさいによく電話でやりとりしたものです。
2005年に労教協事務局に入職したときには、辻岡さんはすでに会長は下りられていたものの、ひきつづき勤通大学長の職はつづけられ、勤通大を担当することになった私は、会議その他でよくご一緒し、いろいろとお世話になってきました。
ここ何年かは、あまり体調が思わしくなく、通院以外には外出もままならない状況ではありましたが、とくに生命に影響があるということではありませんでした。
そればかりか、そのような状態においても、辻岡さんは運動への情熱を失うことなく、私のところに「テストの添削ならやれる。ないのか」とたびたび連絡をよこしてきました。
添削者の手が足りないこともあり、ついつい甘えてきましたが、それ以上に、どのような状態においても運動にかかわっていこうという辻岡さんの姿勢には頭が下がる思いでした。
1999年に東京労働学校三多摩教室の運営委員になってからは、講義をお願いするさいによく電話でやりとりしたものです。
2005年に労教協事務局に入職したときには、辻岡さんはすでに会長は下りられていたものの、ひきつづき勤通大学長の職はつづけられ、勤通大を担当することになった私は、会議その他でよくご一緒し、いろいろとお世話になってきました。
ここ何年かは、あまり体調が思わしくなく、通院以外には外出もままならない状況ではありましたが、とくに生命に影響があるということではありませんでした。
そればかりか、そのような状態においても、辻岡さんは運動への情熱を失うことなく、私のところに「テストの添削ならやれる。ないのか」とたびたび連絡をよこしてきました。
添削者の手が足りないこともあり、ついつい甘えてきましたが、それ以上に、どのような状態においても運動にかかわっていこうという辻岡さんの姿勢には頭が下がる思いでした。
辻岡さんたちが切りひらいてきた運動を、微力ながら引き継いでいき、あらためて、今後の前進のために奮闘していく決意を固めているところです。
辻岡さん、本当にありがとうございました。
安らかにお眠りください。〈Y〉