労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

日本国憲法第9条を生みだしたもの

 以下の文章は、もともとは勤労者通信大学の旧憲法コーステキスト(2006年開校。その後、部分改訂を重ねて2011年まで使用)に掲載していたコラムです。
 全面改訂した2013年版テキストには掲載できず残念でした。
 せっかくなので、本ブログにて紹介します。

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 日本国憲法国連憲章には同じ精神が流れています。
 それは、武力による紛争解決を否定し、平和的手段による解決をめざしている、ということです。
 しかし、日本憲法がいっさいの例外なしに武力行使を禁じているのにたいして、国連憲章は2つの例外(①国連軍、②自衛権の行使)を認めてしまいました。

 なぜ、日本国憲法国連憲章の一歩先をいくことになったのでしょうか。

 国連憲章ができたのは1945年6月26日。
 日本国憲法ができたのは1946年11月3日。

 この間に何があったのか。

 それは1945年8月6日の広島への、そして9日の長崎への原爆投下です。
 戦争が行きつく先をみてしまったこと。
 戦争の行きつく先がこういう惨状ならば、それは戦争そのものをなくす以外にないではないかと考えたのです。

  「日本国憲法の第9条は、広島・長崎以後の国際政治の新たな現実を示す最初の、そして最高の表現である……その時、核爆発の余韻はいまだ消え去らず、焼け焦げた肉体の臭気がまだ立ちこめていた。新たな時代の真の性格──核戦争という途方もない不条理と、いっさいの軍事力が核戦争の防衛としてはまったく無価値であること──が初めてその姿をみせたのが、まさにこの時であり、この場所であったのである」(ダグラス・ラミス『ラディカルな日本国憲法晶文社)。

 46年3月20日、枢密院秘密会議において幣原喜重郎首相は発言のなかで、「原子爆弾の発明は……戦争の放棄を真剣に考えるであろう」と原子爆弾という言葉を明確に使っています。

 また、同じ幣原(このときは国務大臣)が、憲法制定議会でおこなった次のような答弁も、その裏づけとなるでしょう。
 原爆という言葉は使っていないものの、明らかに広島・長崎への原爆投下を意識していることがわかります。
  「次回の世界戦争は一挙にして人類を木っ端微塵に粉砕するに至ることを予想せざるを得ない」「文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争が先ず文明を全滅することになるでありましょう」(貴族院本会議1946年8月27日。星野安三郎『平和に生きる権利』法律文化社、43ページ)。

  ヒロシマナガサキの経験が平和憲法、そして第9条を生みだしたのです。