労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

「抵抗=武力行使」か?

 国家が外国からの攻撃にたいして自己防衛の権利をもっていることは、いうまでもないことです。
 しかし、その方法は武力の行使だけに限られるのでしょうか?
 歴史的にみれば、たとえば、1947年のインド独立の達成に多大な貢献をはたしたガンジーの「非暴力・不服従」運動は、よく「無抵抗主義」といわれますが、武力行使によらない抵抗の形態として評価されるべきでしょう。
 外交努力や経済的な圧力、国民的な抗議・抵抗運動も考えられます。

 ただ、これらの武力行使によらない抵抗は、第2次大戦後もしばらくは、現実的な意味をもつことは少なかったように思います(ちなみにガンジーも、宗教間の根深い対立と憎悪を取り除くことはできませんでした。独立の翌年、ガンジーイスラムよりとみなしたヒンズー教右派の青年によりガンジーは暗殺されてしまいます)。
 「紛争の平和的解決」が国連憲章に盛り込まれても、冷戦下において米ソなど安保理常任理事国自らがそのルールをまもろうとしない状況では、それも無理からぬことです。
 しかし、少なくとも、ベトナム戦争終結ソ連崩壊といった歴史を経た現在の世界においては、抵抗の方法を武力行使だけに限定してしまうのは、狭いだけでなく、むしろ時代に逆行する考え方となっています。

 ベトナム戦争は、「アメリカの侵略にたいするベトナム人民の英雄的なたたかい」として「正義の戦争」だと評価されてきました。
 これには歴史的な背景があります。
 先ほどものべたように、ベトナム戦争の時代はまだ、国連憲章に盛り込まれた平和のルールは、さまざまな地道な努力があったものの、国際政治のうえではほとんど機能していませんでした。
 ベトナム問題は、国連の場では無視されました。
 そういう現実のもと、ベトナム反戦運動が世界的にひろがるなかで、アメリカ帝国主義の侵略と勇敢にたたかうベトナム人民を支援しようということが、当時は盛んに叫ばれたのです。

 しかし、ベトナム戦争終結ソ連崩壊を経た現在、世界の事情は様変わりしました。国連憲章にもとづく平和のルールが現実的な力をもつものとして認知され、「紛争の平和的解決」が地域共同体づくりの中心的な精神となっているのです。
 地域共同体づくりについてくわしくは、勤労者通信大学の憲法コース、労教協編『これでいいのか日米安保』、浜林正夫著『世界は変わる、日本はどうする』(本書では地域共同体のことを「地域連合」とよんでいます)などで学んでください。

 なお、「他国が侵略してきた場合」にかかわって、勤通大憲法コースのテキストは以下のように記述しています。
 この記述は、全面改訂前のテキストから引き継いでいます。

 《敵が攻めてきたらどうするかをえるよりも、敵が攻めてこないようにするのにはどうすればよいか……さらに大切なことは、「敵」をもたないことです》(86ページ)。

 つまり、外交努力でもって「敵」から攻撃されるのを未然に防ぐ、ということです。
 「紛争の平和的解決」を世界の多くの国・地域で本気になって実現しようという努力がはじまり、一定の前進がみられるのですから、そうした状況のなかで実際に武力行使に踏み切る可能性はどんどん小さくなっていくと考えられます。
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」(憲法前文)することが現実的に可能な状況になってきているのです。

 北朝鮮問題についても、各種平和団体、民主団体などが抗議声明を発するなど、北朝鮮の行為が国際法国連憲章に抵触するということを日本国内はもとより国際社会にアピールし、まずは「攻めてこないようにする」努力を積み重ねることが大切です。
 先に武力行使ありきではなく、アジア諸国をはじめとする国際社会のなかで連携して、世論と運動、場合によっては経済制裁などもふくめて、非軍事の「北朝鮮包囲網」をつくっていくとともに、6ヵ国協議を再開して北朝鮮との対話を絶やさないようにするなど、徹底した平和的解決の方向を探るべきです。
 ASEANが先頭にたってアジアに平和の地域共同体をつくろうと努力しているときですから、徹底した平和主義の憲法をもつ日本、さらに中国や韓国(ASEAN+3)がこの動きと連携すれば、北朝鮮に武力攻撃させないような状況をつくることは充分に可能だと思います。〈Y〉