労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

尾崎恵子さんの記念講演

 今日は初日全体会の尾崎恵子さん客室乗務員)の記念講演の概要を紹介します。
 といっても、私は写真を撮ったり、他の仕事でバタバタしていて、話を聞いていないので、聞いていた方のメモをもとに整理しました。
 メモなので、不正確な部分や抜けている部分もあるということをご容赦ください。
 ただ、雰囲気はそれなりに伝わると思います。
 
※以下、参加者のメモより
 
  3つの“はじめて”イメージ 1

 はじめての現役労働者による講演
 はじめての女性による講演
 はじめての同じ話をする講演

 いままで数多くの講演をしてきました。今回も同じ話でいいのだろうかと本気で悩みました。
 しかし、私がいいたいことは一つです。

 客室乗務員として夢をもってこの世界に入った。如何に楽しい思いをできるか、いかによい思いをできるかという思いで入社しました。
 訓練・教習・講習のなかで、教官からいろいろ教えられ、重要な役割があるんだと深く感動を覚えました。
 プロの保安要員・プロの接客要員としてがんばろうと励まし合って働きはじめました。

 しかし、働きはじめた現場は、働いている間ご飯を食べさせてもらえない。
 たとえば10時間に及ぶ勤務、11日の勤務時間がバラバラのなか、最長の勤務でも休憩がとれない。
 これにたいし、飛行機をいかに効率良く動かすかを追求するなかで当然だといういい方をされる。
 ゆっくりご飯を食べる時間がないどころか、トイレに行く時間すらない状況がつづきます。

 1人ずつのお客さんの様子をよく見ながら働けたら、「ありがとう」って声をかけられたらどれだけ胸を張って仕事のことを誇れたこと思います。
 30分の持ち時間で40名から45人のお客さんを相手にするためには、1人50秒前後。
 おしぼりを配り、子どもにおもちゃを配り、飲み物の配布があり・・…・、当然新人が動けないでいると、先輩に負担が行くことになる。

 仕事にもとめられる、質・量について考えるようになりました。
 最初はできるか不安だったが、不思議とできるようになります。
 最初の心がけとはかけ離れ、ベルトコンベアのように機械的な作業をくり返すようになり、だんだんくり返すなかで口も回らなくなるくらいひどい状況になってきます。

 そんななかで、こんな仕事はやってられないと一番早い人で2ヵ月半で辞めていきました。
 しかし、私は周りの人に心配をかけてはいけないと辞めることができなかった。

 そうしているうちに、労働組合の執行委員をやることになった。
 客室乗務員700人のうち100%組合に入っている組合だった。
 変わった人たちが5、6人いた。
 それが労働組合の人だった。
 ある日、同期のなかから1人執行委員をだしなさいといわれ、先輩命令に逆らえず生け贄になる人はきまっています、
 それが私でした。

 執行委員会にはまじめに行くなかで、最初わからなかった内容もだんだんわかるようになってきました。
 何のために署名・集会・交渉をやっているのか。
 当時の大きな課題は、30歳定年制・結婚退職制の撤廃でした。
 会社が命令したらその勤務に対応できる人間、そして、いらない荷物をもっていない世代ということでそういう制度があった。そして、入社時には誓約書を書かされた。
 神様・仏様のような教官でさえ23~4歳で、29歳の方が1人。

 働きつづけたい人が働きつづけられる職場をつくろうと労働組合としてかかげ、要求したのが1969年のことでした。
 その冬の一時金闘争で、結婚定年制撤廃・30歳定年を33歳まで延ばすと回答しました。組合では一歩前進したと大喜び、しかし私は知らなかったこんなひどい職場で働きたいと思っている人たちがいることを、そして要求したら変えていけることを。その後すぐに2人の方が結婚しました。
 その後、たちどころにミス・ミセスがいる職場が当たり前になっていった。

 組合の要求もわからない、それに回答する会社もわからないいくら考えてもわからない私に労働学校の誘いがありました。
 中田進先生の全10回の講義を受けるなかで、過去は現在と未来につながっているということがわかった。
 たとえば、奴隷制の時代に変えたいという人がでてくるとは思えないなか、量は質に転換する、絶え間ないたたかいの末、現在があることがわかった。
 その時代に生きる人間がつなげ合わせることができたとき世の中は変わると、その講義のなかで学びました。
 たたかいの積み重ねのなかでいまこの時代を生きているということに感動した。
 いま生きている私たちがどう生きるかで未来が変わるということを先輩たちは語っていたことにはじめてそこで気がつきます。
 学んでいなかったら私はそのことに気づくことはありませんでした。
 自分たちが望む未来をつくる人になるのか、今を絶望してあきらめて過ごすのかどちらを選ぶか、きまっていました。
 次の日からビラを配る人になってった。

 産別運動、労働運動はどこでも自分の職場をよくするためにはじまります。
 要求をかなえるためのお金が会社にあればいい、そのためにあなた方が協力できるかどうかです、といわれたら、そうかな?と思うこともあります。
 しかし、「そうかな」と思ったところですべての要求が実現されません。

 他産業でも産業のゆがみが起きたとき野状況はあると思う。
 航空産業ではそのゆがみは一度でも100人、300人の命にかかわります。
 先輩たちは、あきらめることなく徹底的にどうしてこの事故が起きてしまったのか学習するなかで、経営・企業優先の論理を認めてしまっていることに気がつきます。

 資本に打ち勝つことができなければ、自分たちの幸せを、自分たちの望む本物の職場をつくることはできない。
 そのためには、全ての労働者が手を結ばなければならないとつくったのは航空連だった。
 客室乗務員連絡会をつくった。
 JALJASANAなど会社を超えた連絡会を立ち上げたのは1976年その中心メンバーに加わった。
 最初にやったのは、お弁当の比べっこ。
 なんとJALだけフルーツが入ってる。
 なぜ入っているか研究すると、JALだけ交渉で弁当代100円UPを勝ち取っていた。
 “働き方”ではみえてこなかった一つひとつの労働条件の集大成が働き方、一つずつ改善していけば働き方は変わるということに気がつきます。
 すべての条件を比較することをはじめた。
 有給休暇は20日は一緒、なかなかとれないことも一緒、しかし、有給のとり方がちがっていた、クリーニングの枚数がちがう、など比べただけでもわかるよりよい労働条件がわかった。

イメージ 2 いま客室乗務員がもっている条件のなかで客乗組合がかかわらなかった条件はありません。
 しかし、働きたい人が働き続ける職場、まだ“働きたい”と思える職場にはなっていないということに気がついた。
 飛ぶのが怖い・働く自信もない、しかしみんなそう思っている。
 注目したのは地上訓練の内容でした。訓練では、地上への連絡方法のみ、救急看護も知らなければ、対応のしかたも知らないなかで、胸を張って保安要員として客室乗務員の任務をはたそうと、独自の救急講座を開催。
 組合はじまって以来の反響だった。
 本当の役割とは何なのか、それをはたせるためには何が必要なのか、と考えるようになりました。
 これは、資本との本当のたたかいを意味していました。
 資本主義社会のなかで、利潤を上げる搾取される道具としての役割をもとめられる労働者が、本格的に立ち上がったとき、その反撃は非常に激しかった。

 労働組合が変わって20年、その恩恵は取り替えされそうになっている。
 JALの不当解雇では、このたたかいの先頭に立ってきた人たち、司法も一緒になって不当な判決を下した。
 いま、この判決を覆そうと全力を挙げています。
 たたかうことを理由にしてその条件を取り戻されてしまった。
 しかし、絶望はしません、
 たたかうことで前進させることができるからです。
 前進もあれば、後退もあり、繰り返す中で1歩1歩前進をしていきます。
 非正規だから、若いから、派遣だから、女だから、仕方がない、といわれている人たちはいま日本中にで生まれ、新しいとりくみが起きている。

 全国から集まったみなさん、学ぶために集まったみなさん!
 学ぶとはどういうことでしょう?
 それは、見誤らないために学びます。
 そして、自分の望む未来を実現するために学びます。

 最後に、バトンリレーだったら前にすすめます。
 しかし、運動は走っても走っても必ず前にはすすみません。
 それは、私たち人間が巨大な「ムカデ競争」をしています。
 どこに向かっていくのかみんなで走ることができればそのすすみ方は一気に変わります。
 一緒にがんばりましょう。