労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

森本起用問題の本質は「憲法と安保の矛盾」にある

 森本敏氏の防衛大臣起用問題について、私の発言の趣旨がうまく伝わってないようなので、整理と補足をします。

 たしかに私は、森本氏の防衛大臣起用を「憲法違反だ」といいましたが、それはあくまでも、問われればそう答える、という程度のものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 いみじくも「ぬくぬく」さんが「神学論争」だといわれましたが、私の主眼は、「憲法と相容れない安保や自衛隊の存在」を正面から問うことなしに、文民統制のことだけを議論するのは意味がない、不毛だということにあります。

 森本問題について、「路傍の人」さんは、「世間の論調を見ていると混乱している」といわれていますが、「混乱」のおおもとは「憲法と安保・自衛隊が相容れない」ことにほかなりません。
 つまり、本質を抜きにして現象面だけにとらわれた議論をしている、ということです。

 そして、「憲法と安保・自衛隊が相容れない」状況をつくり、維持・拡大してきたのは、アメリカからの安保・自衛隊の「押しつけ」を“積極的”に受け入れた自民党政権を中心とする歴代政権であり、それを引き継いだ民主党政権です。
 不思議なもので、憲法の「押しつけ」をいう人はいても、なぜか安保・自衛隊の「押しつけ」をいう人は少ないのが日本の実状です。

 それはともかく、前回も発言したように、そもそも日本国憲法文民規定が入ったのは、軍国主義の否定をより徹底するために、閣僚からの旧軍人の排除を徹底するという、制定当時の事情が反映していたのであって、順調にいけば、現在では経過規定としての意味しかもたなかったはずです。

 ところが、安保・自衛隊が「押しつけ」られてしまった。
 9条のもとで「軍隊をもつ」とはいえないものだから、「自衛のための必要最小限の戦力は合憲だ」などという詭弁をもちだして自衛隊の発足(正確には前身である警察予備隊と保安隊を経て)を強行し、安保の「押しつけ」を“積極的”に受け入れた。

 文民統制の本質は、軍部を民主的にコントロールし、軍部の暴走を阻止する、ということにあるのでしょう。
 だとすれば、軍部の存在を想定しない日本国憲法のもとでは、本来ならこの概念は意味をなさないものです。

 安保・自衛隊を強行してきた歴代政権も、自衛隊が「軍隊でない」と言い張るのであれば、そもそも文民統制など議論する必要はないわけです。
 しかし、歴代政権は安保・自衛隊憲法と相容れないことを重々承知のうえで、しかしそれをハッキリいうわけにはいかないものだから、奇妙な文民解釈をもちだしてきたのだと思います。

 そもそも憲法と安保・自衛隊が矛盾しているのに、ムリヤリ憲法と安保・自衛隊を両立させようしてきたものだから、矛盾に矛盾を重ね、混乱がどんどん拡大してきたのです。
 いわゆる解釈改憲も同じことであり、安保・自衛隊を容認し積極推進したい勢力が矛盾を一気に解決しようと思えば、当然のことながら憲法第9条を変えるしかない、という結論に行き着くしかないわけです。

 前回の発言の最後に、私は以下のようにのべました。

 「文民統制の意味を深めておくこと自体は大事ですが、ことさらにそのことだけをとりあげて騒ぎ立てるよりも、森本氏の危険性を事実にもとづいて徹底的に暴露し、日米同盟強化路線の阻止と安保廃棄、憲法を活かした日本を実現するという本筋にのっとった運動を旺盛に展開することの方が肝要かと思います」。

 「憲法と安保の矛盾」という本質的視点でみれば、森本起用と文民統制という問題は、1つの現象でしかないのです。
 本質のない現象はなく、現象を離れた本質もありません。
 森本起用と文民統制を直結させる議論は、本質をみないで現象面のみにとらわれているのだと、私は思います。

 むしろ、政治家ではない「玄人」=軍事オタクの森本氏を起用したことで、日米同盟強化路線を積極推進するという民主党政権の本質が、より鮮明なかたちで現れてこざるをえないということこそ、注視するべきではないでしょうか。
 同じ軍事オタクでも政治家である石破茂氏(自民党)は、一定の政治的配慮や駆け引きをからめながら政策を貫徹しようとする姿勢をとりますから、大きなちがいがあるのです。

 そしてこのことは、ピンチであると同時に、民主党政権の危険性を訴えていきやすいという意味で、大きなチャンスでもあると思います。   (ブログ担当・吉田ふみお)