労働者教育協会のブログ

生きにくいのはあなたのせいじゃない。

山梨の学習教育運動の経験にふれて―山梨県学習協総会

 3月31日(土)午後、山梨県学習協総会があり、参加してきました。
 
 今回の参加は、「次世代育成における基礎理論学習の重要性について、全国のとりくみから学びたい」という県学習協側からの要請のもと、事務局長から「その日は行けないから、代わりに行ってくれないか」といわれ、荷の重さを考えずに引き受けてしまいました(^^;)
 
 まあ、事務局にたいする要請で、私が行くのですから、勤通大での経験をつうじて話せることを整理して話すしかないなと思い、忙しい募集活動の合間を縫って、準備をすすめました。
 
 全体的に遅れている募集活動を少しでも促進することにつながれば、という思いもありました。
 
 会場は、甲府から2駅となり(東京からは2駅手前)の石和温泉駅から歩くと20分くらいかかるリバース和戸(山梨県青少年センター)。
 私は中央線沿線なので、山梨は意外と近いのです。
 特急に乗れば1時間30分程度。
 
 昼食は電車のなかで済ますつまりで途中で仕入れ、11:30ごろ、地元の駅を出発。
 家をでると、えらい強風で、少々歩きにくく、在来線も徐行運転でした。
 三鷹で特急「かいじ」に乗り換えましたが、石和には予定より数分遅れて到着しました。
 
 駅をでると、車窓からすでにみえていたのですが、かなり雨が降っていました。
 天気予報より少し遅い降り出しです。
 駅には、県学習協の矢崎事務局長が車で迎えにきてくれました。
 
 14:00から総会がスタートしました。
 遅れて到着した人もふくめて、11人が参加しました。
 少ないと思われるかもしれませんが、山梨の会員は22人ですから、半分は参加していることになります。
 3ケタの会員数をもつ学習協でも、20人前後の参加がほとんどですから、その点ではよく集めているといえるかもしれません。
 
 総会に参加したことで、この1年くらいを中心とした山梨での活動状況がよくわかりました。
 とくに、ここ5年ほど労働学校を継続してきているということで、総会議案にもあるように「貴重な成果」だと思います。
 専従県が3~4ヵ月のスパンで全10回程度の労働学校を開催しているのとちがい、月1回程度の全4~5回の開催ではありますが、地域に労働学校の灯を絶やさずにつづけているのはすばらしいことだと思います。
 
 『学習の友』についても、拡大にとりくむも「増やさないと減る」という全国的な傾向と同じ状況にあるなかで、生協労組で4部増やすなどの「一定の成果」をあげています。
 
 また、2010年3月から高退教(高校退職教員の会)と共催で「近現代史学習会」がつづけられていることも、本当に「貴重な取り組み」だと思います。
 議案書にあるように、「日本の近現代史を『きちんと正しく理解すること』は、『現在をどう生きるか』につながる」営みです。
 いよいよ「戦後史」に入るということですが、この学習会の成果が、県学習協の運動全体の発展にうまくつながっていくことを期待します。
 
 議案提起を受けた討論では、ほぼ全員が発言しました。
 以前、学習協の事務局長をしていたという、東電OBのNさんは、久しぶりの参加ということでしたが、かつて山梨でも300人が勤通大を受講していたこと(あとで交流会の場で、300人というのは『学習の友』読者のことではないかという指摘がありましたが、真偽は調べてみます)、県内にいくつかの学習会が組織され、協会の辻岡理事長が講師としてみえられたことなど事務局長時代の運動の経験が紹介されました。
 
 自治労連の方からは、組合の仲間に『学習の友』を増やした経験が語られました。
 
 などなど、それぞれから貴重な活動報告や貴重な昔話などが発言され、加藤会長や矢崎事務局長から、「かつてないくらい、いい総会じゃないか」と言わしめたほどでした。
 
 討論を終えるとメインの総会部分を終え、休憩をはさんで、私の特別報告の時間に移りました。
 私は用意したレジュメにもとづいて1時間ほど話しましたが、武田事務局次長から「たいへん示唆に富む話だった」という言葉をいただくなど、おおむね好評だったようなので、ほっとしています。
 話の内容は、後日あらためます。
 
 すべてのプログラムを終え、甲府駅付近の居酒屋で交流会。
 残ったのは私をふくめて8人でしたが、Nさんや加藤さん(弁護士)から東電裁判の話を聞くなど、貴重なひとときを過ごすことができました。
 
 山梨の東電裁判の顧問弁護士をつとめた加藤さんは、「いまは東電が悪いというイメージばかりが喧伝されてるが、東電の良心をまもった人たちがいるということをちゃんと伝えないといけない」と力説していましたが、本当にそのとおりだと思います。
 
 中電、関電もふくめ、電力関係の思想差別をめぐる裁判闘争は、現代史にその名をとどろかせる裁判だと思います。
 ほとんどの裁判が、私が活動をはじめた90年代半ばごろに判決がだされたと記憶しています、
 なかでも関電裁判は、「職場における自由な人間関係形成の自由」を認めた画期的な判決で、協会の山田会長も講義や講演でたびたび紹介しているのを思いだします。
 
 また加藤さんからは、「福島原発をつくるさいに、30メートルあった断崖を、東電と福島県が10メートルずつ削った。もし崖を削らなかったら、女川と同じ高さで津波に遭わなかっただろう。マスコミはいっさいこのことをいわない」と興味深い話をしてくれました。
 なぜわざわざ削ったのかはよくわかりませんし、津波以前にすでに地震でやられていたという話もありますから、加藤さんの話だけを鵜呑みにするわけにはいきませんが、マスコミがいっさい伏せているという事実はたしかに気になります。
 
 Nさんからもおもしろい話を聞きました。
 「オレと一緒に民青で活動していたカノウトキオは、東電経営陣に魂を売って出世街道に乗って、副社長までいった」。
 
 カノウトキオ――心当たりのある名前だったので、「はて」と首をかしげていたら、はっと思いだし、カバンから一冊の本をとりだしました。
 小松公生著『原発にしがみつく人びとの群れ―原発利益共同体の秘密に迫る』(新日本出版社)です。
 ちょうど行きの特急のなかで加納時男がでてきた部分を読んでいたのです。
 「この人のことですよね?」と該当ページをみせると、「そうそう。こいつだよ」と。
 
 本書によれば、「加納氏は、一九九八年、経団連の全面的なバックアップのもと、自民党の公認候補として、参院選比例代表、比例名簿の一〇位)に立候補、当選。その前年までは、東京電力原子力担当の副社長でしたが、参院選に出馬するために退任していました。以来、二〇一〇年まで二期一二年にわたって、国会のなかで原発政策推進の旗ふりを続けてき」た人物です。
 
 同じ民青で活動していながら、かたや会社から不当な扱いを受けながらも、真っ正直に初心を全うしつづける人。
 かたや東電経営陣に魂を売り、ウソで塗り固められた原発政策推進の旗ふり役をつとめ、いまでも東電の顧問を務める人。
 はたして、歴史の審判はどちらに下ったか。
 答えは明白です。
 
 平和委員会代表理事のSさんも参加しており、私の話をたいそうほめてくださいました。
 実は、Sさんが執筆し、山梨県学習協が刊行した『山梨の戦争と平和―北富士を考える』の紹介を『学習の友』に載せたことがあるなど、Sさんとは縁がありました。
 今回、ようやくお目にかかれて、本当にうれしかったです。
 そのうえ、私の拙い話までほめていただいて、恐縮です。
 Sさんの新刊『入会権は生きている』(県学習協刊)もさっそく購入しました。
 編集長に申し入れて、また紹介を書かせてもらおうかと思っています。   (ブログ担当・吉田ふみお)