憲法コース受講生からの質問と、それへの回答を掲載します。
《質問》
1928年の時点で不戦条約に日本は参加していた(テキスト71ページ)にもかかわらず、なぜ戦争をアジアで拡大していったのでしょうか?
《回答》
この質問は、不戦条約のもとでなぜ第2次世界大戦を防ぐことができなかったのか、ということでもあると思います。
このことを深め、その後の努力を跡づけるために、第1次世界大戦後から現在にいたるまでの戦争と平和をめぐる世界史の動向を大づかみにみておきます。
900万人もの犠牲者をだした第1次世界大戦にたいする反省から、当時の国際社会は、戦争と平和の問題でおおきな変化が生じました。
1920年に国際連盟が発足したことです。
世界史ではじめて軍事同盟を否定する集団安全保障の理念にもとづく平和の国際機構が誕生したのです。
独自の実力の手段をもたず、アメリカも参加しないなど大きな弱点をもっていましたが、「連盟規約」のなかで、「締約国は、戦争に訴えざるの義務を受諾し」とあるように、はじめて戦争そのものを否定した国際機構でした。
この国際連盟のもとで1928年に不戦条約が締結されます。
紛争解決の手段として戦争そのものが否定されたのです。戦争を合法とする時代から違法として否定する時代への転換がはじまったのです。
こうした国際社会のおおきな変化のなかで、日本は中国への武力侵略の野望を強めていく(日本が戦争をつづけ、植民地化をすすめた理由についてはテキスト64ページ参照)のですが、同時に1930年代初頭ごろまでは、協調外交(とくに対欧米)の路線も重視していました。
それは、日本よりも圧倒的に強い軍事力を誇る欧米列強との軍事衝突を避けながら、アジアでの権益を確保するための日本なりの戦略だったといえます。
そうしたことを背景に、3度にわたる山東出兵(1927~28年)や張作霖爆殺事件(1928年)など中国への武力行使にたいする諸外国の批判が高まっていたことなども影響し、日本は不戦条約に調印したのです。
また、日本は国際連盟発足時の常任理事国でしたので、そうした立場からも不戦条約に参加する必要があったと思われます。
しかし、出発したばかりの「戦争の違法化」原則は重大な弱点を抱えていました。
議会の反対でアメリカが参加できないまま国際連盟が出発したことも痛手でした(ただしアメリカは、不戦条約には参加しており、国際連盟についても専門家委員会に政府代表を送るなどの協力や支援はしていました)。
不戦条約が「もう戦争は起こしてほしくない」という民衆の願いが反映したものであることはまちがいありません。
しかし同時に、大国主導で条約がつくられたために、大国の利害がからんでいたことも否定できません。
とくに「この条約で自衛戦争は禁止していないという理解がひろがり、自衛という名目で侵略戦争をおこなう国がでて」(テキスト72ページ)くるようになってしまったことが重要です。
1930年代に入ると、33年に日本とドイツ、39年にイタリアが国際連盟を脱退しました。
この日独伊3国こそが第2次世界大戦を引き起こした枢軸国です。
日独伊は「戦争の違法化」原則にたいして真っ向から挑戦状をたたきつけたのです。
これにたいして米英ソを中心とする反ファシズム連合国が民衆運動の支持を受けて枢軸国とたたかい、第2次世界大戦に勝利しました。
反ファシズム連合は、「帝国の論理」「大国の論理」がからんでいたことも否定できませんが、基本的には「戦争の違法化」原則をまもり、発展させる立場だったといえます。
しかし同時に、国際連盟のもとでは大国間の軍事衝突を避けることができなかったことも見過ごしてはなりません。
こうした国際連盟の失敗への反省から、反ファシズム連合国を母体として現在の国際連合が発足します。
連合国のなかから米英仏ソ中の5ヵ国が安保理常任理事国になったのは、大国(とくに米ソ)が協調しないと「戦争の違法化」原則を貫徹できないという当時の歴史的事情を反映しています。
しかし、1940年代後半からの冷戦の本格化によって安保理常任理事国内に亀裂が生じ、ベトナム戦争が無視されるなど、国連憲章に盛り込まれた平和のルールは、戦後長期間にわたり機能不全に近い状態でした。
国連が本来の機能を発揮する条件が整ったのは、ベトナム戦争終結やソ連崩壊を経た90年代以降のことです。
こうした苦難の歴史を経て、「戦争の違法化」原則を継承・発展させた、第9条を中心とする日本国憲法の平和主義原則は、いまや「めざすべき目標」として世界から注目されるようになってきています。
現在、世界各地ですすめられている平和の共同体づくり(集団安全保障の地域版)は、紛争の平和的解決という点で、国連憲章や第9条と共通した精神をもっています(テキスト第2章第3節参照)。